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滋賀大学経済学部附属史料館にゅうすSAM 第25号


絵画から歴史を紐解く

  当史料館が今秋開催する企画展「近江の街道と宿場のまちなみ」では、文字史料とともに街道絵図など視覚に訴える史料も多数展示される。ここでは、滋賀大学経済学部の玄関に飾られている150号の絵画を題材に絵画資料から歴史の一こまを読み解いてみよう。
 この絵には、韓国済州島に伝わる漢帑文化祭をもとに民俗色豊かな数々の神話、伝説に基づき、漁民・農民それぞれの生業が、踊の形でいきいきと表現されている。その作者は昭和10年に本学部の前身彦根高商を卒業し、グリコに入社してからは子供の喜ぶ数々のおまけを考案していった故宮本順三氏である。在校中の氏は美術部を創設し、東北地方の飢饉救援のために彦根丸菱百貨店で絵画即売会を開催したり、文芸部に所属して『湖畔文学』を発行するなど旺盛な文化芸術活動を展開した。また、小幡人形など郷土玩具・郷土文化の魅力に早くから目覚め、卒業後も日本あるいは世界各地の玩具や人形を集め、郷土色豊かな祭を見聞しては、その感動を幾多の絵に認め、各地の公共機関に寄贈されてきた。
 そんな氏の自伝的回想録『ぼくは豆玩』のなかには、彦根高商時代を回顧して「人口3万ばかりの彦根にアメリカ人のスミス牧師が教会内に朝鮮人学校を開き、10歳から20歳くらいの生徒に、朝鮮語と商業、算数、地理などを高商の学生達が先生となり教えていたのである」(51頁)という一節が登場する。ここに登場するスミス牧師とは、彦根高商の英語教師も務めておられたパーシー・A・スミス氏のことで、昭和6年、彦根城とキリスト教の文様を取入れた美しい和風教会堂(スミス記念堂)を建立し、日米小学校児童の相互交流を図ったり朝鮮人学校を開設したりしていたことで知られる。
 この絵画を前にし、またスミス記念堂が10年にわたる市民運動の末今秋再建・竣工の時を迎えるにあたり、私は、宮本氏とスミス牧師にはともに、和と洋、そしてアジア・朝鮮の文化を相互尊敬する思想と、子供達の心をつなぎそこに幸せをもたらそうとする心情が脈々と流れていることを感じる。私たちの先達・先輩が残してくれたこうした精神こそ、グローバル・スペシャリスト養成を目指す本学部に相応しい歴史的遺産であるといえよう。


(史料館長 筒井 正夫)

ばっくとぅざぱすと その十九
 小野組糸店の「出世証文」  

 
 モノを交換するという行為は、人類の歴史において最大の発明の一つであるといわれる。経済の発展によって貨幣が社会活動の全体を覆い、それなしでは日常生活を維持できなくなるような社会は、日本においては近世期に成立したといえる。
 このような貨幣経済の社会においては、金銀貸借や商品売買などの経済活動にともない、借用金銀の返済や商品代金の支払いが滞り、その弁済を求めた係争が生じることは、理の必然であった。
 経済活動を円滑に進めるためには、これらの紛争を解決する方法を整備することが必要であり、そのために為政者は出訴権の認否や裁許制度を含めた裁判機構の整備を進めていく。日本史の教科書で必ず教わる「享保改革」期は、まさにそのような社会制度が整備されていく過程であった。 
ところが、紛争を解決するためには公権力による裁許を得るという方法がある一方で、当事者同士の話し合いで解決を図るという方法もあった。この場合は、社会的慣習に基づいて係争を解決し、その結果を当事者の信義則によって守るということになる。社会的慣習は、それが慣習であるがゆえに、ある限られた領域(社会)に生きる人々にとって共通する行動規範・価値観の反映であるといえる。しかし、これらは時間とともに変化するものであり、地域によって相異するものであった。私権に基づく法典編纂がなされなかった近世社会は、それゆえに全国一様の法が浸透していたのではなく、地域ごとに異なる慣習が複合して、紛争の解決にあたっていた社会だったといえる。
 ところで、私が近年関心を抱いて史料の収集と分析に挑んでいるのは、「出世証文」のことである。この証文は近江国に最も多数伝来されていることや、その意味については、大学の講義でもしばしば紹介しているので、すでに概略をご存じの諸氏もいると思っているが、最近、仮目録を作成した史料館所蔵史料のなかの、興味深い事例の一つを紹介しておこう。 この事例は、「小野組糸店文書」と仮に称している文書の中にあるものである。小野組については、すでに幾つかの研究書や論文があるが、史料館所蔵のものは新発掘の史料であり、これまで参照された痕跡は見あたらないため、今後の本格的な分析が期待されるものである。
 さて、写真は文久3年(1863)11月に「塚本しづ、伜重兵衛」が「井筒屋(小野組)御糸店御支配人中」に宛てて差し出した「出世証文」である。内容は、重兵衛の兄「覚兵衛」が奉公中に質物として預かったものを他に売り払ってしまい、質出しの申し出に対処できないこととなり、質取代金百両をしづ・覚兵衛・重兵衛の債務として引き受け、二人の息子が「出世も仕り候はば、きっと返弁致させ申すべく候」と請け負ったものである。
 奉公人が遣いこみをしたり、損金を出したりした時に、その金額を商家の損金として処理をする一方、あくまでも奉公人の債務として弁済させることは、一般的にみられた行為であるが、右の場合は、直ちに弁済させるのではなく、「出世」した時に支払うということで合意している。 
「出世証文」を書かせて、将来の不定時における弁済を約束させるのは、債権者と債務者の間で特別な関係があったからだと考えられる。多くの事例では、その関係を明らかにできることは少ないが、この「塚本家」の事例はその点では明白である。 それは、この「塚本家」は、井筒屋の別家であったと考えられることである。「塚本しづ」の夫は「又兵衛」であったが、「暖簾」分けを許されていた。しかし、死後の当主である覚兵衛に借財が重なり、また、かつて覚兵衛・重兵衛も奉公人として糸店に勤めていたものの不埒が重なり解雇を命じられ、そのつど詫びを入れて再勤を許されていた。しかし、糸店からの借用金450両余について、文久元年11月に覚兵衛は出世証文を入れており、同2年4月には暖簾を取り上げられてしまい、3年11月に至り写真のような再度の出世証文を書く羽目になっている。 
こうしてみると、この塚本家の出世証文は、父又兵衛が暖簾分けをしてもらったほどの功労者であったがゆえに、出世払いを許してもらったのだと考えられる。しかし、息子兄弟の不埒な行動は、「井筒屋」の暖簾に傷をつけることであり、信用を保持するためには別家であることを否定し、暖簾を取り上げるという対処に至ったものと考えられる。
 右の糸店は京都に所在したが、小野組総本家は近江国大溝(現・高島市)にあったので、このような商家の対処のあり方は近江商人研究を進めるうえでも有為な史料群だといえる。 このように、近世期の債務弁済の局面においては、さまざまな事例を確認することができ、成文法では知ることができない慣習について知見を得ることもできる。出世証文の作成は、そんな慣習の一つであるとともに、近江国の近世史を特質づけるものなのである。

(企業経営学科 宇佐美英機)

古 今 当 在
  近江の宿絵図について   

 高宮宿絵図(部分) 

 今年度の附属史料館での企画展のテーマは、「近江の街道と宿場のまちなみ―収蔵宿絵図から―」です。宿絵図とは、江戸時代の宿場(宿駅)の町並みを描いた絵図であり、幕府・藩による街道筋の調査などに応じて作成されていました。「東海道五十三次」「中山道六十七次」などと言うように、宿場はそれぞれの街道沿いに設置されていて、幕府の公用通行者に伝馬や人足を提供することなどを義務づけられていました。その一方で、宿場は一般の旅行者を旅籠で休泊させたり、商人荷物の継ぎ立てや市立てを行なうなどといった特権も与えられていました。
江戸時代の近江には、東海道・中山道・北国街道・若狭街道(鯖街道)・御代参街道など、多くの街道が走っていました。畿内・近国と東国・北陸方面をつなぐ位置にあった近江は、琵琶湖水運だけでなく、陸上交通もきわめて盛んな「道の国」でもあったわけです。そして近江国内には、東海道の大津・草津・石部・水口・土山、中山道の守山・武佐・愛知川・高宮・鳥居本・番場・醒井・柏原など、数々の宿場が栄えていました(東海道と中山道は草津宿で合流し、大津宿を経て京都に向かっていた)。
企画展では、現在史料館で収蔵している宿絵図の中から、とくに米原宿・高宮宿・醒井宿・柏原宿の四つの宿絵図を取り上げました。これら四点の絵図は、四宿それぞれの個性をよく捉えており、非常に優れた内容を持っています。さらに各宿に関係する史料を展示するとともに、現在の風景写真や江戸時代の絵画資料のパネルなどを用いて、これら宿場の江戸時代の風景と、現代の風景との対比も試みています。
米原・高宮・醒井・柏原は、滋賀大学経済学部から近い距離にあり、さまざまな歴史の面影を今に伝えている場所です。この秋はそれぞれの場所に、歴史探訪の小旅行に出かけてみてはいかがでしょう
1997年)も参照。

(史料館 青柳周一)