近江文化私観
筒井 正夫 (経済学部教授)
文化とは人々が長い年月をかけて土地を「cultivate」し、衣食住の生活風土として形成してきたものであるとするならば、その根源は伝統的慣習が根強く生きる農村社会に見出せるはずである。そんな思いを抱いて僕は、今から十年ほど前近江八幡の浅小井という集落に住み、村民一年生として寄合にも出席し、村祭りにも松明作りから参加して約一年半を過ごした。そこで見出したものは、丸山真男が「個の析出を許さず」と言ったような共同体規制が個を飲み込んでしまう社会でもなく、また逆に個が突出して孤立し共同性を喪失してしまったような社会でもなかった。そこでは、村人たちの「個」としての活発な存在と同時に、ムラ社会=共同体としての村落の強さが共存していたのである。
近畿は古くから麻・綿・絹などを用いた様々な物産を生産し商品流通も発展し、「個」の成長は早く、経済的感覚にもけっして疎くない。現在でも実に盛んな祭や町づくりにも村民たちは活発に発言し積極的な関わりをもって活動している。そしてそうした強い「個」が、琵琶湖と周囲の山々に囲まれた比較的狭い耕地に集住して村落を形成して
いる。東北地方の農村のように、広大な土地に個々の農家が散居しているのではない。それはまるで「街」といってもいいほど、一つ一つの家々が「密集して」暮らしている。したがって、何世代にもわたって顔と顔を突き合わせながら、「個」と「個」が主張しあいつつ、仲良く暮らしていかねばならない。
しかし、否が応でも「個」が共同し合わねば、生きていけない仕組みになっている。それは、この地が古代から開け、耕地のほとんどが水田として開発されてきたことに由来する。上流の者が使った水を自分達がもらい、それをまた下流の人々に利用してもらう。水の管理と運用を通じて個々の農家は否応無く協力を余儀なくされる。しかも近江の川は、琵琶湖と周辺山系に挟まれて短いため流量が少なく、ために旱害に頻繁に見舞われるが、一旦大雨が降ると琵琶湖の水と天井川が容易に氾濫して大洪水をもたらす。日照りの時は、同じ水系の農民たちは、一つの命綱にしがみついているように団結し、限られた水源を巡って隣り合う水系の農民と、血で血を洗うのっぴきならない騒動をも引き起こす。しかし、洪水後の水利復旧時にはまた争った相手とも共同していかねばならない。
この「水」という人力では如何ともなしがたい自然力を前にして、強い「個」はどのようにして人と人との「和」を、そして人と自然との「和」を形成していくことができたのであろうか。
その一つは祭の存在である。農作業の合間合間に自然への恐れと感謝の気持ちをささげ、五穀豊穣や家の永続を願う行事は、同時に、村民一人一人がさまざまな役を負わされて融和を図り、遊興に興じ、時には水争いの村落間の融和さえ図る工夫がなされていた。
その祭の根底を支えている精神風土は、自然信仰と祖先信仰が合体した土着の産土信仰と、人間の個としての悩み・苦しみからの解放を諭す仏教とが、長い年月をかけて、互いを認め合いながら融合した本地垂迹の宗教的風土である。近江の村落には必ず複数の神社と仏閣が存在し、共存している。
![]() 写真:「滋賀の祭りと伝統 行事 100選」 |
さらに、こうした宗教風土、精神風土を衣食住の総合文化にまで高めたのが茶道である。近江の地に今も脈々と受継がれる茶道が、戦国時代という、生産力が飛躍的に発展して自然との調和を崩し、さらに人間が階層間、村落間、領国間の絶え間ない戦闘状態におかれた時代に生み出されたことに深く注意する必要がある。それは、己を捨てて他を活かしあうことで「個」と「個」の調和を図り、さらに四季の自然を生活全般に取り入れて自然と個との交流を促す。そして様々な器物を日常生活の中で心を込めて用いることを通じて、人と物との間にも心の通い合いをもたらす。しかも、それは「知」が先にあって頭から覚えるのではなく、「行」を通じて身につけ、普段の生活や立居振舞の中に、自然・美・和をもたらす独特な文化体系である。これは、戦国時代の教訓からいかにして狭い郷土で、個人がお互いを認め合いつつ、自然を愛でて美しく平和に暮らすことができるかを模索した結果編出された知恵の結晶であると、僕には思われてしかたがない。
戦後日本がほぼ一貫して捨て去ろうとしてきた、こうした我々祖先たちの貴重な知恵を今一度真摯に省みる必要があるのではなかろうか。