今の研究を語る
 聖武天皇と紫香楽宮時代

小笠原 好彦 (教育学部教授)

 この本では、聖武天皇が天平年間(七二九―七四九)に滋賀県信楽(しがらき)町に造営した紫香楽宮(しがらきのみや)の背後にある歴史的な謎を、最新の発掘資料をもとに書きました。
 平成十二年秋、信楽町にある国史跡の紫香楽宮跡から、二キロ北にある宮町(みやまち)遺跡で、紫香楽宮の朝堂の建物が見つかりました。これは九〇メートルを超す長大な南北棟建物で、国家の政務や儀式をおこなったとみなされるものです。ついで、平成十三年秋には、この建物の東方で対になる東朝堂と朝堂院の中心建物とみてよい大型の東西建物も検出されました。
 これで、聖武天皇が造営した紫香楽宮は、これまで史跡に指定されてきたところではなく、宮町遺跡にあったことが明らかになったのです。
 この本では、まず紫香楽宮の中心部が宮町遺跡で見つかるようになった研究の経過をたどりました。
 宮町遺跡は水田の畦を作りかえる圃場整備(ほじょうせいび)事業中に、たまたま土地所有者が水田から三本の建物の柱根(ちゅうこん)をひろい、それを植木鉢の台に利用したことがきっかけとなり、その一〇年後に発掘調査が行われることになったのです。十五年におよぶ調査によって、紫香楽宮は圃場整備が済んだ水田下から、不死鳥のようによみがえったのです。
 信楽で聖武天皇が盧遮那仏(るしゃなぶつ)を造立し、紫香楽宮の宮都を営なんだのは、世にいう聖武天皇の五年間にわたる彷徨(ほうこう)のさ中のことでした。
 そもそも、この彷徨は、天平十二年(七二〇)一〇月、大宰府(だざいふ)に左遷されていた藤原広嗣が大宰府管内で起こした反乱のさ中に始まりました。そのため、乱を避けるためとする考えが定説化してきました。しかし、平城京をでた後、伊勢に滞在中に乱は平定されましたが、それでも天皇は美濃を訪れ、さらに近江路を西へたどり、山背(やましろ)の恭仁郷(く に)(加茂町、山城町一帯)に至り、ここに恭仁宮(くにのみや)・京を造営して遷都しました。突然のことでした。
 その後、天平十五年(七四三)には、信楽で盧遮那仏の造立が開始され、その翌年の十六年二月には難波(なにわ)京へ遷都がおこなわれ、ついで紫香楽宮に遷都したように、宮都が転々とうつり、天平十七年五月に平城京に戻ることになったのです。これは、謎を積み重ねた彷徨でした。
 歴史教科書では、この聖武天皇の彷徨によって社会が混乱したことを記すだけで、十分説明されていません。しかし、天皇の意志のみで遷都しうる古代天皇制の本質がよく表れています。
 これまで、聖武天皇による彷徨に対する研究は、古代史研究者が『続日本紀(しょくにほんぎ)』の文献史料をもとに進めてきました。しかし、私は恭仁宮跡や宮町遺跡で見つかった紫香楽宮の発掘調査の成果をもとに、なぜ聖武天皇が東国へ行幸後に、突然に恭仁宮・京を造営し、さらに信楽で大仏と宮都を造営したのか再検討を試みてみました。
 聖武天皇が山間部の信楽町で盧遮那仏の造営をおこなったのはなぜか。しかも、それまで政府から弾圧を受けてきた行基とその集団が、この造営の中心的な役割を担ったのはなぜか。また、大仏造営に関連して設けられた離宮の紫香楽宮が、どうして古代国家の宮都に変貌したのか。ここには、いずれも解明し難い多くの難題があります。
 これを解くには、平城京をでた聖武天皇が木津川の両側に造営した恭仁京の性格を解明するのが最も重要なことです。
 これには、中国の唐の都の一つである洛陽は、洛水(らくすい)が都を東西に貫流しており、恭仁京も、木津川が京内を東西に貫流する地に造営されており、しかも、洛陽の竜門石窟(りゅうもんせっくつ)を模して信楽で大仏を造立したとする魅力的な学説があります。この説をもとにして、この本では竜門石窟の踏査を踏まえて発展させてみました。
 聖武天皇が彷徨を開始した天平十二年(七四〇)は、前年に渤海(ぼっかい)国の使節が訪れました。この時、天皇は渤海が東アジア世界に新たに参画したことから、新羅、渤海に対し日本の国際的な地位を高めることの必要性を痛感したように推測されます。そこで、天皇は中国の三都制にならって、日本も平城京、難波京に加えて恭仁京を造営したものと理解されることを、遺跡の調査成果をもとに述べました。
 新たに紫香楽宮が見つかった宮町遺跡と史跡の紫香楽宮跡を訪れると、より理解できるでしょう。