【2016/6/16 経済学部ワークショップの模様】

《ワークショップ ReD》《文学研究会》共催

生きる戦時をうたう
詩歌と第二次世界大戦下のハンセン病療養所と
   阿部安成 (本学教授)

社会問題提起メディアとしての<詩>
慰安婦詩における「あなた」と「わたし」とは誰か
   菊地利奈 (本学准教授)

 今回のワークショップは、第二次世界大戦下のハンセン病療養所での詩歌の作詠と、 従軍慰安婦についての詩を素材とした「社会問題提起メディア」についての報告となった。

(阿部報告「生きる戦時をうたう―詩歌と第二次世界大戦下のハンセン病療養所と」)  これまで第二次世界大戦下のハンセン病療養所のようすは、当事者たちによる記録においても、 その多くが窮迫として綴られてきた。戦争や戦時動員を絶対悪ととらえれば、 その被害がとりわけ弱者とみなされるものによりいっそう強く押しつけられたのだから、 その当事者からすれば致し方ない認識ともいえる。

 だが、ハンセン病療養所に残る戦時期の稀有な史料をたんねんに読むことにより、 隔離施設に生きる療養者たちが、詩歌の作詠をとおして、生の燃焼ともいうべき様相をあらわしたと、 わたしは考える。それは同時に〈削ぐ〉生だといってもよい。言葉を削って短歌や俳句をつくり、 そこにはまた、郷里での生活から離れてゆくなかで、さまざまな手持ちの生の手立てを削ぎ、 削がれ、他方で敵への憎悪を露わにするみずからの生がうたわれていた。 (阿部安成)

(菊地報告「社会問題提起メディアとしての<詩>―慰安婦詩における「あなた」と「わたし」とは誰か」)  現在、詩を読む人は少なく詩集を買う人は稀である。それでも、詩という表現法は、 「高尚」で「人々に感動をよびおこす」ものだとして社会で認識されているようである。 詩には、社会問題を訴えるための手段・媒体としてどのような利点があるのか(あるいは「ある」と考えられているのか)、 詩人・石川逸子の活動を軸として考察した。

 石川逸子の『砕かれた花たちへのレクイエム』(1994年)に収録された慰安婦にされた少女を主題とした詩「少女2」を例に、 社会問題を訴えるために「犠牲」になる文学的要素について分析。石川の用いる、自分が体験していないことを、 調査や文献、あるいは人から伝え聞いたことなどをもとに「たちあげ、物語として詩におこす」手法については、 広島の原爆体験をうたった一介の主婦が書いた詩「ヒロシマの空」との比較を通して考察した。

 「戦争」に関連する詩は、「体験していない者」によって書かれる時代になっている。 戦争の被害者を主題とし「社会へ訴える」手段としての詩が、ひとつの型にはまることなく、 体験していない者が声なきものに声を与えていく詩作という作業が、ここから発展していくことを期待したい。 (菊地利奈)