【2015/12/8 経済学部ワークショップの模様】

《ワークショップReD》
《安全保障関連法に反対する滋賀大学人有志の会》 共催

ルソン島 戦場の実情

杉原正雄 さん (元 村松陸軍少年通信兵学校 第11期生)

 現在彦根市内にお住まいの杉原正雄氏は、今から71年前、昭和19年11月5日に新潟県の村松陸軍少年通信兵学校を繰り上げ卒業後、 南方軍派遣要員となった。杉原氏が門司港で乗船した「摩耶山丸」は済州島沖で撃沈され、海上を漂っていたところ、 奇跡的に上陸用舟艇に行き会って九死に一生を得る。その後台湾からフィリピンのルソン島へ送られ、 文字通り「生き地獄」の戦争を体験することになる。やがて昭和20年8月15日を迎えるが、 武装解除地点にたどり着くことができたのは9月の半ば以降であった。そのとき赤痢を罹病しており、 病院に収容されて一命を取りとめた。意識が戻った際に聞こえた、看護婦の「先生この子生きています!」という声は忘れられないとのこと。 同じように投降した人びとは、気の緩みからか多くは助からなかったそうである。日本に復員したとき、杉原氏は19歳だった。

 いま、杉原氏がワークショップで配布されたレジュメをもとに、戦時中のご経験について事実関係を中心に要約してみたが、 ご自身によるお話のにおい立つような生々しさや、お話を聞いているこちらの身に迫ってきた「戦争とは本当に嫌なもの」という感覚は、 その万分の一も伝えられそうにない。せめて、当日のお話の中からいくつかのエピソードを記して、文責をふさぐことにしたい。

 陸軍少年通信兵学校へ入学する前、地元の社交場だった銭湯で、杉原氏は大人たちが「この戦争、負けるのでは」 とこっそり話しているのを聞いたそうである。当時の人びとは戦争の実態に薄々気づいていたが、 そのあと「おい、この話ほかにするなよ」と口止めされたように、すでに社会自体の雰囲気が異論や反論を許さず、 そのまま流れていくしか仕方のないものとなっていた。

 済州島沖で乗っていた船が沈むとき、救命具の数が足りず、杉原氏は受け取ることができなかった。 やむなく杉原氏は孟宗竹で救命具を自作して海に飛び込み、それで幸いにも浮かぶことができたが、 救命具を与えられた兵士たちの多くは、その重装備に比べて浮力が足りなかったのであろう、飛び込んでそのまま沈んでいった。 また杉原氏は上陸舟艇に乗り込もうとしたとき、船員に「満員だ、アカン」と断られている。 それでも自力で乗船したが、間近に死が迫った瞬間だった。杉原氏はこの「満員だ、アカン」の声を今でも思い出すという。

 ルソン島では激しい砲撃を受け、それからの行軍―事実上の逃避行の中では、自爆する者も出た。 同じ村松の同期生だったが、何もしてやれずに前へ進むしかなかった。「腹一杯食べたいなあ」と言って横になり、 大いびきをかいていた学徒兵が、起こそうとしたら死んでいた。戦場での死は、実際にはほとんど病死か餓死であった。 それでも補給もないままに、「いったいどこに行くんだ、俺たちは?」という先の見えない恐怖とともに、 ひたすら戦場を進むほかなかった。そこにはドラマや映画のような勇壮さなどは一切なく、あまりにも多くの命が、 ただただ粗末にされて失われていった。

 「だから、戦争には反対です」。杉原氏はくりかえし強調された。 今回のワークショップはお話と質疑応答を含めて3時間半余に及び、70年目の太平洋戦争開戦の日にふさわしい充実した内容となった。 学生の参加も多く、質疑応答では「靖国神社についてはどう思いますか?」「安保法制などが成立するような中で、 自分はどう行動したらいいでしょうか?」といった率直な質問も出され、杉原氏には戦争体験者の立場から真摯に答えていただいた。 僕らは杉原氏によるお話を受け止めて、そこからいまこの時点で考え抜かなければならないと思う。 人の命が粗末にされる戦争へと否応なしに流れていく雰囲気が、再びできあがってしまわないように。 (青柳周一)