【2015/10/29 経済学部ワークショップの模様】

《ワークショップ ReD》

女性はプロパガンダ詩を書かなかったか
−太平洋戦争期に女性が書いた「戦争詩(愛国詩・国民詩)」をよむ

菊地利奈 准教授

 記録のようす、記録の読み方、記録をめぐるわたしたちのリテラシを問おうとするとき、 その記録のかたちは多様だ。今回のワークショップでは、戦争をめぐる記録を問うこととし、 その記録を詩と絵画とする企画を立て、戦争―詩や絵画―女性、この連関を論じることをワークショップの目的として、 今回は前者の詩をとりあげた。

 菊地利奈さんが掲げた論題は、「女性はプロパガンダ詩を書かなかったか−太平洋戦争期に女性が書いた 「戦争詩(愛国詩・国民詩)」をよむ」。おもに1941年の開戦以降を対象として、プロパガンダ詩、戦争詩、愛国詩、 国民詩とよび得る詩がとりあげられた。菊地さんが設けた「女性はプロパガンダ詩を書かなかったか」との問いへの応答は、 書いた、となる。だがどうも、男たちが棲息する学界においては、女性がプロパガンダ詩を書くことを認めたくない、 あるいは、仮にそうした詩があったとしても論じるに値しない、 もっとひどくは芸術たりえない出来だから無視してよいという雰囲気と態度があったようなのだ。

 君死にたまふことなかれ、とうたった与謝野晶子は知られていようが(ただし、『広辞苑』第6版では 「歌集「みだれ髪」「佐保姫」「春泥集」のほか」との記述だが)、女たちはまた、男に出征をよびかけ、 戦争遂行をうたう詩を書いたのだった。しかもそれは、1941年12月8日以降に噴出するといいうるほどに書かれていったという。 女たちもまたみごとに戦争を担っていた、その記録のひとつとして女が書いたプロパガンダ詩があることとなる。

 わたしが調査と研究のフィールドとしているハンセン病をめぐる療養所でも、療養者がつくる詩歌であれ絵画や陶芸であれそれらに対して、 外部のものたちはおおむね、逆境のなかに開花した芸術作品という評価をあたえ、誉める自分を心地よくおもうばかりで、 作品そのものを深くしっかりと評する態度に欠けていたとおもう。こうしたむきあい方はやはり、 1941年の開戦以降に療養所内でつくられた詩歌には沈黙することとなる。

 女子どもも戦時下の総動員体制で労働力となったり銃後を担ったりし得たのに、ハンセン病療養所に生きるものたちは、 ひたすら隔離の場にいることがかろうじて報国となる生(せい)を生きた。そうした療養者がよんだ1編の詩において、 戦闘の現場であり解放と共栄の理想郷でもあると夢みられた「大東亜」が、療養者にとっては救癩の実践場と想像されたとの解釈が示された論考が、 ようやく2007年に発表された(荒井裕樹『隔離の文学−ハンセン病療養所の自己表現史』書肆アルス、2011年)。 戦争―詩―女性の連関は論じる必要がなかったのではなく、論じる視野と力能をもつものがいなかったのだ。その端緒が開かれた。  (阿部安成)