【2010/1/26 経済学部ワークショップの模様】

Texture in Cultural Backyard W

発見と実証とフィクションと
  :井伊直弼銅像の2つの〈その後〉から

阿部安成 教授

   この報告では、横浜に直弼の銅像が建立された1909年以降の2つの事例 を素材として、歴史をあらわすときの手続きや道具としての「発見」「実証」「フィクション」 を考える手立てを示してみました。議論のもととした史料の詳細については、滋賀大学経済学 部Working Paper Series No.119の「ナオスケが立つ:1910年彦根、井伊直弼の銅像建立」 (2009年10月)、同No.122の「ナオスケの首が:この世にあってはならないこと」(2010年1月) を参照してください。
  直弼のあらわし方をめぐっては、3つの空白域があるとおもいます。1つは、2010年のいま彦根 でおこなわれている「井伊直弼と開国150年祭」において、テーマに「直弼」がかかげられてい ながらも、彦根のこの祭典では直弼が充分にはとりあげられていないとみえること、2つには、 直弼の伝記や評伝において、その記述が直弼の死をもって終わるという、伝記や評伝としては一 見あたりまえにみえる型が踏襲され、それ以降の記述がないこと、3つには、直弼の顕彰として 銅像の建立が注目されたとしても、それは横浜の銅像にかぎられていること、しかもその建立後 のようすについては、戦時下の金属回収をのぞくと、ほとんど関心がむけられないこと、です。
  横浜で直弼の銅像が建立された1909年以降、その翌2010年に竣工した彦根の直弼銅像について は、これまで研究論文や『彦根市史』『新修彦根市史』でもほとんどとりあげられませんでした。 だれにも参照されなかったといってよい史料、彦根の直弼銅像除幕式のようすを記録した文献、 『故井伊直弼朝臣銅像除幕式之記』(1911年)が、彦根市立図書館にありました。これによって、 彦根の直弼銅像は、直弼の英断によって日本の開国が断行されたことを讃えるために、その英姿を みられるように意図されて建立されたとわかります。
  直弼の偉勲をあらわす記念碑としての銅像をめぐっては、その首が銅像除幕式の翌日に切り落と されたとする記述が、いま、インターネット上のブログをとおして発信されています(ただし、そ れは横浜の直弼銅像)。それは、『神奈川県の歴史散歩』(山川出版社)を出典としているようで すし、同書は吉川英治の作品を参照しているようですし、吉川はみずからの記憶や『横浜貿易新報』 の記事を根拠としています。銅像首切り情報の大元とみられる吉川の記述には誤りが多く、それは事 実ではないと指摘できる可能性がとても高いといえます。しかし、横浜の直弼銅像はその建立直後か ら迫害の危機にあると報じられ、破壊の未遂にあい、そして実際にその一部が折りとられてしまいま す。これらの銅像建立後のようすをあらわす史料をふまえると、横浜の直弼銅像は、生首が落とされ た像主とおなじようにその身体が損壊されてもかまわないとみられていたとわかります。
  報告後のディスカッションでは、歴史の再構成における「時効」の問題、銅像リテラシーともいう べき歴史の読み方、銅像という表象とナショナルヒストリーとの連係、彦根における井伊家への思慕 などが議論されました。直弼という歴史を考えるにあたっての展望が開けたとおもいました。
                                          (阿部安成。出席者7名)