【2009/8/18 経済学部ワークショップの模様】

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戦前期ハンセン病療養所の患者自治をめぐる諸問題−1936年長島事件を手がかりに

松岡弘之(大阪市史料調査会調査員)

  松岡弘之さんは、すでに発表した論文で大阪の外島保養院をフィールドとして、そこでの患者自治の形成、患者作業制度と自治、移転問題と患者自治について論述している。このワークショップでの報告「戦前期ハンセン病療養所の患者自治をめぐる諸問題−1936年長島事件を手がかりに」は、そこでの論点をふまえたうえで、岡山の長島愛生園での自治をとりあげた。それは、松岡さんがたずさわった岡山県ハンセン病関係資料集(2007年〜2009年)での療養所所蔵文書の調査をふまえた1つの成果でもあった。
  長島愛生園は、1931年公布の「癩予防」による隔離政策の実施をみとおして、1930年に開設された、最初の国立療養所である。その園長が、隔離政策の推進者として知られる光田健輔である。この療養所での患者自治の形成を、@体制と担い手の問題、A職員との連携・対抗、という2つの観点から考察する報告となった。
  長島愛生園では、1936年7月末の時点で療養者数が定員の1.3倍となっていた。住環境は、12畳に8〜10名という状態で、園内作業による収入も療養者間に所得格差をもたらしていた。そうしたなかで、1936年8月に「暴動」が勃発した。それが長島事件である。この「事件の経過を受けて、長島での自治会規約が策定」される。ここでは、大島療養所や外島保養院の規約が参照されたといわれる。長島の自治会の特徴は、全員加入で、執行機関としての常務委員会があり、担当役員が作業部などの各部を統轄し、さらに末端の執行機関として舎長がおかれ、また、評議機関としては、各舎(または各区)から評議員1名ずつが選出されてその任にあたった。一方で、園長の監督や関与が広く確認できる面もあった。
  松岡さんは、「光田健輔率いる長島愛生園でも自治の開始」があった、という。それは、「患者の主体的な組織化が不可欠な段階」となったことのあらわれでもあった。そうした転換が生起した背景には、「許容限界を超えた患者の収容」、「自治を経験した患者(外島・大島)の影響」が指摘されている。
  自治とは、療養所のなかでだけ求められるのではない。では、療養所の外の自治となにが違うのか。松岡さんは、自暴自棄からの脱却、代表選出の仕組み、経済格差の改善、これらがなにより療養所の自治において求められた項目であり、これがあるがゆえに、療養所の自治は、外のそれと異なるのだという。
  療養所の自治をめぐっては、それを明らかにする史料そのものが充分ではない。これからもいっそうその探査と公開が進められる必要がある。              (阿部安成。出席者6名)