【2009/5/29 経済学部ワークショップの模様】

Texture in Cultural BackyardW
気の身体性―文化と歴史の視点から

ウチラルト
(桐蔭横浜大学スポーツ健康政策学部講師)

  いっけん捉えところのない文化概念としての「気」を人々は如何に実体として生きているのであろうか。また、中国の近代化の流れのなかで、なぜ「気」をめぐる論争は絶えないのであろうか。
  「気」の実体性について、ここでは二点取り上げた。ひとつは、機械論的宇宙観を基礎とする気の身体的実践である。この宇宙観においては、自然(大宇宙)と身体(小宇宙)は、完全な対応関係にあるとされる。具体例として、自然の24節気と人間の24脊椎との対応関係のなかで実践される「二十四節気坐功導引法」が挙げられる。立春や夏至などの節気の移り変わりの節目に、静坐して脊椎の対応する箇所に意識を集中するならば、痺れるような感覚、ひんやりとした感覚などを体験することができるとされる。それらの感覚こそは、天人感応(自然と人間の対応関係)の確かな証なのだと言われる。
  もうひとつは、神霊論的宇宙観を基礎とする気の身体的実践である。先の機械論的宇宙観の「対応−感応」関係とは対照的に、こちらでは「断絶―回復」関係が強調される。具体例として、「真空家郷、無生老母」信仰における身体実践と、混元気功における静坐を取り上げた。前者においては「家に帰ること」が、後者においては「先天の状態」に戻ることが至高の目的とされる。両者とも心身の浄化を唱え、「無」の境地に近づくにつれ、老母のメッセージを受けられ、或いは先天の振る舞いをするようになる。あくびやゲップを連発すること、意味不明な音を発すること、これらの身体的な振る舞いは、神霊的宇宙と接続されているという確信を人々に与える。
  しかし、人々は、身体的に「気」を実体として生きることができ、そこには確かな感覚があるとしても、「気」は近代科学的な観点からその存在を明らかにすることができるのであろうか。このような問いは、中国の近代化の過程で、20世紀を通して何度も発せられてきた。とりわけ、医療気功、健身気功のように国家の医療および体育領域において制度化されている気功の場合は、その科学性が常に問われてきた。また、科学的な気功とそうではない(宗教的、迷信的)気功との境界化が、認識および制度の面において行われ、それはしばしば、近代と伝統の対立、科学と宗教の対立、国家と社会の対立の問題として浮上してきた。
  今日、気や気功と関連する事象について考える場合、少なくとも上記のような文化的および歴史的な視点が不可欠である。 (ウチラルト)