【2008/3/28 経済学部ワークショップの模様】

―Texture in Cultural Backyard U―

「「病む」という経験/「病」という生き方―ハンセン病者の語りといかに向きあうか―」
石居人也(町田市立自由民権資料館学芸員)

「島からの声―国立療養所大島青松園の長田穂波を聴く―」
阿部安成 教授

  今回のワークショップは、後記の3編の論文を発表している石居人也さんにおいでいただき、ここ10年くらいの病や生をめぐる議論の動向をふまえて、いまわたしたちは、ハンセン病をどのように受けとめ、それをどのように表現するのかを議論する機会としました(石居論文は、@「死せる彼ら/生きるわれわれ:コレラ流行下における遺体処理をめぐって」森村敏己ほか編『集いのかたち:歴史における人間関係』柏書房、2004年、A「明治初年の〈衛生〉言説:火葬禁止論争をめぐって」『歴史学研究』第828号、2007年6月、B「政策的隔離草創期におけるハンセン病「療養」者の声:『癩患者の告白』を聴く」黒川みどり編『〈眼差される者〉の近代』解放出版社、2007年)。
 石居報告にさきだって、まず阿部が、石居報告の前提となる論点の整理と、大島青松園の調査で発見した長田穂波の日記について、報告しました(日記の翻刻については、「資料紹介 長田穂波日記1936年(1):療養所のなかの生の痕跡」『彦根論叢』第370号、2008年1月、を参照。続刊予定)。「衛生」の語によってあらわされるひとの身体と社会の規範は、19世紀末のコレラの流行を介してつくりだされました。そこでは、病に罹らない、から、病を伝染させない、という大きな転換がみられました。伝染病がひとを介して流行するので、この規範をふまえて、富強な国家をつくりあげるために、ひととひととの関係が再構成されたのです。江戸時代の養生から近代の衛生へ、そしてこの伝染病の流行をきっかけに登場したあたらしい衛生という規範は、隔離の制度と思想と慣行をともなうこととなりました。
 この隔離がハンセン病に対して徹底され、伝染力がとても微弱なハンセン病に罹ったものに絶対隔離というべき処置が施されたことを、これまでは強権としての国家による悪として指弾されてきました。他方で、ハンセン病者への「愛」を掲げながらこの隔離をおこなった医師がいて、そのものたちを慈父や聖母のようにあがめてきた病者たちがいる。このように衛生の帰結として、あるいは衛生と表裏の関係にある隔離をめぐって、これまでは二分したとらえ方がおこなわれてきました。
 石居さんは、『癩患者の告白』(1923年)という内務省衛生局が編纂したテキストをつかって、「癩者」たちのなかにこそあったものとして隔離をあらわしました。「癩者」にとっての表象としてある隔離といってもよいでしょう。では、ここに最初の国立療養所である長島愛生園園長だった光田健輔の隔離構想と実施をおくと、さきの表象はどうなるのでしょうか?あるいは、監房が設置されてそこで入園者が死んでしまった療養所の現実や、現在も療養所のなかで生活をしている人びとがたくさんいる、いわば生の保障施設として療養所が機能してきているという事実は、表象の議論にどのように組み入れられるのか?まだまだ議論の余地、あるいは不足がわたしたちにはあります。出席者5人。(阿部安成)