【2008/10/23 経済学部ワークショップの模様】

Texture in Cultural BackyardV
<翻訳>という名の異文化交流

菊地利奈 准教授

  本ワークショップでは、英語詩を翻訳するという行為を通して、詩人がどのような言語的影響を受ける可能性があるかを、佐藤春夫、左川ちか、西脇順三郎の三人の日本詩人の翻訳作品を例に考察した。例として比較検討したのは、ジェイムス・ジョイスの『Chamber Music』(1907)の訳詩である。
  『Chamber Music』の第五つ目の詩(「V」)の三人の訳を比較すると、一番初めの訳者である佐藤の訳には、どうやら英語の理解がおぼつかなかったようなあいまいな箇所がある。佐藤は、それをぼかした上で、『Chamber Music』全体をとらえるのではなく、「V」の部分だけを「金髪のひとよ」という独立した一篇の詩として訳した(1926年『佐藤春夫詩集』に収録)。左川の訳は、原詩の韻を完全に放棄し、あえて散文詩として訳しているところに新しさがある(1932年『室楽』として出版)。西脇の訳は、日本で最初に本格的にジョイスの詩を紹介したともいわれるものであり、文法的にも三訳のなかでもっとも信頼がおけるものだといえるであろう(1933年『ヂョイス詩集』のなかに「室内楽」として全訳を発表)。
  また、散文訳と韻文訳を比較するために、ジョイスの『Chamber Music』の最終連(「XXXVI」)の左川訳と西脇訳を比較した。「V」と「XXXVI」の翻訳の比較を通し、詩の訳では、必ずしも英文法に忠実であることが最優先されていないことが明らかとなった。訳者により最優先事項がことなることからさまざまな訳がなされ、各日本語訳を分析することにより訳者のねらった詩的効果が推測できるのではないか、と私は考えている。
  左川は、ジョイスの散文訳を文芸誌に発表しながら、同時期に、自らも多くの散文詩を発表した。そこには、単語の表現方法や詩のスタイルに、ジョイスの翻訳を通して受けた影響がみてとれる。西脇の場合にも、後期の作品になればなるほど詩が長編と化したことや、詩のスタイルの変化には、「翻訳という行為」(ジョイスだけではなく、エリオットの長編詩である『The Waste Land』や『Four Quartet』の翻訳も西脇は手がけた)から受けた影響があると考えられる。さらに、西脇の詩にみられる改行方法及び、英語にみられる関係節による修飾方法を日本語で実践しているかのような「新しい言語構造」は、「翻訳という行為」と関連が深いのではないかと推測している。この点については、今後、分析をすすめるものとする。
  報告後は、文法構造と詩的言語について、西脇がジョイスの原詩だけではなくフランス語訳も参考しにしていた可能性について、西脇とホルヘ・ルイス・ボルヘスの類似性についてなど、指摘を受けた。ボルヘスや多和田葉子など、二つ以上の言語圏をいきる作家や詩人についても、議論がなされた。(菊地利奈)