【2008/10/23 経済学部ワークショップの模様】

Texture in Cultural Backyard V
「桜田門外の変」を解きほぐす

阿部安成 教授


  「「桜田門外の変」を解きほぐす」と題したこの報告では、「桜田門外の変」という出来事を構成するであろう、いつ、どこで、だれが、なにを、なぜ、どのように、といった項目の内実を紡ぎあわせて、この出来事の像を組み立てるのではなく、現在にいたるまで流布しているいくつかの「桜田門外の変」像を1つずつ解きほぐして、それがどのような立場や観点から組み立てられてきたのか、そしてそれはどのような意味をもつのか、を考えることとした。

 現行の高校日本史教科書にみられるとおり、「桜田門外の変」についての記述は、「1860(万延元)年に脱藩した水戸と薩摩の志士によって井伊直弼が暗殺される」(『現代の日本史 改訂版 日本史A』山川出版社、2007年)と、直弼を主語とし、暗殺されるという動詞の受身形で記されることが多い。すると、直弼が暗殺される理由はなんだったのか、と問われる。多くのばあい、安政の大獄や水戸藩への弾圧があげられ、直弼はみずからがおこなった政治のゆえに殺害されてしまったのだ、と得心されることとなる。

 この出来事の直截の当事者は、彦根と水戸と薩摩となり、現在においても、『彦根市史』(1962年)と『水戸市史』(1982年)とでは、「桜田門外の変」の記述の仕方に違いがあらわれてしまう。前者では襲撃勢が「暴徒」としてひとくくりにあつかわれ、後者ではそのひとりひとりの描写がおこなわれるといったぐあいである。襲撃勢の個性を滅却して記述した分、『彦根市史』においては、「桜田門外の変」の主人公として直弼をとらえ、その最期をあきらかにしようと努めていた。

 直弼の事績を顕彰する動向への反発や異議申し立ては、1880年代に顕著になり始める。20世紀初頭にはそれが、横浜と彦根における銅像の建立と、贈位と靖国神社への合祀をすでにおえた「桜田義士」をめぐる一大キャンペインとの対照として、多くの人びとの目にみえるようになる。1920年には、「真実」や「史実」を掲げた『史劇 井伊大老の死』の上演が中止に追い込まれる。直弼の顕彰をめぐる対抗が、社会のなかで先鋭化したのである。

 テロを否定する立場をとるものであっても、「桜田門外の変」は「歴史を躍進させた」事例として評価することがある(司馬遼太郎)。維新への転換点ととらえることで、桜田門外にあらわれた暴力は許されてしまうのである。彦根からみた、あるいは水戸からみた「桜田門外の変」の像は、一方に偏っていると批判されたり疑義をつきつけられたりするだろう。では、「史実」や「維新」という観点による「桜田門外の変」のとらえ方に問題はないのだろうか。この報告では、「桜田門外の変」という出来事をとおして、歴史の見方や、出来事の表現の仕方を自覚する必要を主張した。
                                         (出席者8名。阿部安成)