【11/2 経済学部ワークショップの模様】

―Asian Studies Workshop 壱―
「帝国と観光――戦前における日本人の『満洲』観光」

高 媛氏(日本学術振興会外国人特別研究員)

 高さんの最新作は「「楽土」に響く"都の西北"」(西原和海ほか編『満洲国の文化−中国東北のひとつの時代』せらび書房、2005年)です(この書籍は、高さんから本学附属図書館に寄贈されました)。ここにあらわれているように、高さんのご研究の主題は、「王道楽土」といわれた「満洲」をめぐる観光です。ご報告ではまず、高さんは、「日本の文脈における「観光」という言葉の誕生」「「観光」の語源」「"Tourism"と「観光」の出自の違い」について述べました。わたしたちの「観光」をめぐる通念があらためられてゆきます。「帝国」日本のもとでおこなわれた「満洲」への「観光」とは、人びとの平時のレジャーといってすませられるような制度や身体行為なのではなく、なにより「植民地戦争」が生み出した「文明」と「国威」にかかわって視線が作動する、政治の磁場にほかならないのです。
 軍との密接なかかわりを持ちながらメディアイヴェントとしての「満洲観光」が展開し、また、日清・日露の両戦争にかかわって海外修学旅行や満韓修学旅行が制度化されてゆく様相を高さんはていねいに述べ、帝国日本の戦争と軍事と植民政策が「満洲」をふくむアジアへの観光とつながっていたことを解き明かしてゆきました。
 わたしはこの研究会で、海外修学旅行と戦争や軍事との関係について、あらためて勉強をしました。この海外修学旅行には、かならずといってよいほどに「戦蹟」がその旅程に組み入れられています。この旅行なかの戦蹟観光をとおして、日露戦争ならば、20〜30年ほどまえの過去の出来事としての戦争(日清戦争ならば、さらに10年まえ)が、人びとに体験され歴史化されてゆくのです。戦蹟とは、まだ崩れた瓦礫の残る現場と忠霊塔という装置にほかなりません。現場の生々しさと、「忠霊」という戦死の受け止め方の両方をみることで、旅行者たちは戦争の体験の仕方を学習してゆくことでしょう。
 ただし問題は、こうした観光をとおして、人びとはどのような帝国臣民や帝国国民になったのかを、もういちど、きちんと、「観光」に即して表現することなのです。高さんもおっしゃったように、この観光は「装置」なんだ、というのならば、この装置はいつ、どのように作動(ON)するのか、装置が作動していない(OFF)とき、旅行者はなにであり、そのとき観光がどのような意味を持つのかが、明らかにされなくてはなりません。
 くわえて、高さんがいう「満韓」は確かに鉄道で連続してはいるものの、鉄路ではそこと断絶している観光地の台湾を、海外修学旅行についての考察にうまく組み込む必要があるでしょう。彦根高等商業学校の海外修学旅行は、その初期にすでに台湾や「南支南洋」を旅程に入れていました。帝国の「勢力圏」と「観光圏」とが重なる、あるいはその同時伸張を高さんは指摘しましたが、彦根高等商業学校の事例をふまえたとき、観光コースが勢力圏を先んじてしまっていることも、重要な論点になると思います。
 帝国史の重要な1つのフィールドとしてわたしたちが確認した「観光」は、方法においても、史料の収集と活用をめぐっても、これから研究と論議が活性化する領域といえます。出席者9名(阿部安成)