【2008/1/8 経済学部ワークショップの模様】

―Asian Studies Workshop 参―
満洲における「風景」の誕生:『大連新聞』と「満洲八景」

高 媛 (駒澤大学グローバル・メディア・スタ
ディーズ学部専任講師)

  高媛さんのご報告は「満洲における「風景」の誕生:『大連新聞』と「満洲八景」」の論題でおこなわれました。報告後の議論で出されたとおり、「○○八景」とはもともと漢詩の世界における〈文化〉としてあったものが、日本列島の各所をその対象としてゆくなかで、だんだんとその「漢」の属性を排除していきながら、ナショナルな〈日本〉の風景を創出していったという理解があります。それが20世紀には列島の外へと送り出されて、「在満日本人の勢力圏と重なる」領域、つまり関東州と満鉄沿線で、「八景」としての風景が創り出されたというのです。1929年に、非政府系民間紙の『大連新聞』によって、創刊10周年記念イヴェントとして「満洲八景」が公選されました。それは人為の風景であり、議論のなかで出された表現を用いれば、「風景を馴らす」行為にほかなりませんでした。「植民地風景」の誕生です。日露戦争後に日本が開拓した安東の鎮江山が桜の名所となり、吉林の松花江が「満洲の京都」にたとえられ、旅順の白玉山が戦跡のいわば聖地となりました。
 さて、この「満洲八景」はそれが選ばれた後、どのようになっていったのでしょうか?「満洲八景」の絵葉書や、浴衣にお菓子がつくられ、八景五勝には記念標識も建立されました。しかし、このいわばメディア・イヴェントは、在野の新聞社がおこなったため、かならずしも観光開発にはつながらなかったとのこと。この「満洲八景」には、「在満日本人の心象地理が素朴にとらえられていた」と高さんはいいます。そして、「満洲国」時代になると、ナショナルな風景から「大陸的風景」へと変化する、ととらえられています。
 では、この「大陸的風景」への変化とはなにのあらわれなのでしょうか?また、ここにいう「大陸的」とはなにの表象なのか?そして、「満洲国」建国のその直前といってよい時期におこなわれたこのメディア・イヴェントは、「植民地」という問題系のなにを議論することとなるのでしょうか?「植民地近代」「植民地経験」が議論されているこのところの研究動向において、「植民地風景」は魅力ある主題といえます。高さんのご報告は、「植民地風景」の発見、創出、その変化を議論する可能性を開きました。風景の領有(appropriate)は、植民や戦争が展開する時期の、これも1つの〈暴力〉だとわたしは考えます。このAsian Studies Workshopでは、観光や風景をテーマとして、今後も議論をつづけてゆきたいものです。
 なお、今回のご報告の原デッサンというべきものに、高媛「満洲における「風景」の発見:「旅大八景」から「観光百選」へ」(『月刊中国』第15巻第12号、2003年12月)があります。出席者8人。(阿部安成)