【8/8 経済学部ワークショップの模様】

―Texture in Cultural Backyard―
「暴力の地平に立つ。―目取真俊を読む―」

    阿部 安成 助教授

  このワークショップでは、@かつての共同研究の成果である『暴力の地平を超えて−歴史学からの挑戦』(青木書店、2004年)での議論を、そのつぎにすすめること、A目取真俊の作品の読み方を示すこと、を試みた。
  いくらかの時間をかけた議論のすえに刊行した論文集ではあったが、『暴力の地平を超えて』は、因果関係の解明を得意とする(と、ひとまずいえる)歴史学の著述らしく、なぜ暴力が行使されたのか、をめぐる論述を展開してはいるものの、超えるべきものとして設定された「暴力の地平」について、論者ごとに充分にその論を考察したとはいえなかったようにおもう。そうした自己点検をしてゆくなかで、「暴力を生きる」(尹慧暎)という事態をとらえた論考をあらためて読んでみれば、わたしたちは、生活者をとりまく諸種のちから、生活の場にかかわるちからの多義性を書く手がかりを得ていたのだった。
  たとえば、民衆運動史研究は、それまでの階級闘争や人民闘争という主題とはちがって、できるだけ、運動を成り立たせている日常の解明に努めてきたといえる。そこでは、運動をめぐる人びとの日常との連続や断絶、運動という結集にいたるひととひととのつながり、対抗する集団の様相などが議論されてきた。「暴力を生きる」という視座は、それらにくわえて、社会に暴発したちからが、人びとを幾重にも分断・分轄し、人びとの身体に痕跡を残し、そうした事態をうけてなおひとりひとりが「生きる」という〈その後〉を見通す探求者の意思のあらわれであった。
  報告の副題とした「目取真俊を読む」とは、報告を終えたいまとなってみると、文字どおり、彼の作品を読んだ、という報告にとどまっていたとの悔いが残る。目取真の作品には、沖縄戦の戦闘や戦場はほとんど描かれていない。彼は、沖縄戦の体験と記憶を、現在に(=〈その後〉に)再現representしている。そして自己の作品を「沖縄物」と一括されることを拒否しながら、表現をめぐる「厳しい目と自立した姿勢」(目取真俊)を追究する自覚を手放さないでいる。
  目取真が小説のなかに開いた世界は、戦争によっても暴力によっても、どうにも沈黙させられてしまうものの所在を示している――「鳥肌が内臓にまで広がっていく」ような「嫌悪と怒り」を、実現するエージェントをつくりだしている(「軍鶏」)――殺害という「最低」の方法だけが有効となるとしか自覚されない、しかもそこになんの感慨も後悔もない切迫があることを教えている(「希望」)。沖縄戦という過去と、基地の島という現在とを交差させながら創造された目取真によるフィクションの世界は、歴史の読み書きを職分とする歴史研究者に、どういった注文をつけているのか。またいずれ論議することとしよう。出席者10名。(経済学部助教授 阿部安成)